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昨年、電子書籍の専門ストアーに、青空文庫のファイルが移されると、「収録冊数の水増し」となじる声が上がった。仲間内では、以来、青空文庫を「水」と呼ぶことが流行った。
私たちの活動の目的は、著作権の切れた作品を、使い回しの効くテキストに仕立てて、社会の資源として利用してもらうことだ。四方八方に流れて、そこで人を潤そうと目指すのだから、水は青空文庫のあり方にふさわしい。
そらもよう 2013年01月01日 春を待つ冬芽(富田倫生)
千駄木を歩く。 « 川柳マガジン編集部ブログ 2012年1月16日
春が来る
忘れたように
何もかも
SOPAとPIPAに対する戦いを、ハリウッド対シリコンバレー、インターネット政策の支配をめぐる2つの巨大勢力の衝突、と考えるのはありがちな落とし込み方ではある。しかしその構図は、まったく正しくない。法案が廃案になったのは、抗議行動の拡大のおかげだ。しかしその勝利を仕立てたのは、わかりやすい名前のない、既存のロビイストではない何かである。魔法の力も隠れ家も持たない何かである。論争に際してもっとも強力でもっとも重要な声を発するにも関わらず、最近まで議会の目に映らなかった何かである。
その何かとは、あなただ。あなた個人がそうでなかったとすれば、あなたの隣人、あなたの同僚、あなたの友人、あなたの子どもたちだ。何百万人という人々が、自分の地元選出の議員に、オンライン著作権防止法案と知的所有権保護法案への反対を要請した。その「組織化」ができたのは、自分たちの日常に深く入りこんだウェブサイトを守りたい一心からだ。
ジミー・ウェールズ、キャット・ウォルシュ:メディアは我々であり、あなたたちだ(Source: Washington Post)
翻訳は、様々な意味で村上の作品を理解する鍵となる。 彼は一貫して日本の作家からの影響を否定してきた。 作家活動の初期には、「日本人という呪い」から逃れようとしているとさえ語った。 その代わり、十代の若者として、西洋の小説家の作品を貪ることによって、文学の感受性を培った。 その中にはヨーロッパの古典(ドストエフスキー、スタンダール、ディケンズ)もあったが、 彼が生涯を通して繰り返し読んだのは、とりわけ20世紀のアメリカのある種の作家たち、 レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーテ、F. スコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガットなどだ。
処女作に取りかかったとき、村上は奮闘し、標準的でない解決法に行き当たった。 本の冒頭を英語で書き、それから日本語に翻訳し直すのである。 そうやって自分の声を獲得したと彼は言う。 村上を長く翻訳しているジェイ・ルービンによると、村上の作品の特徴のひとつは、 あたかも英語の原作から翻訳されたかのように読めることだという。
村上春樹の猛々しい想像力 (2/3)(Source: The New York Times)
プロジェクト・グーテンベルクの強みは、アクセス可能な電子書籍を共有するという単純なヴィジョンが、当時利用できた技術によって直接的に実現できたということだった。(中略)
ただのプレーンなASCII (plain vanilla ASCII) という用語は、プロジェクト・グーテンベルクの文書のなかで、マントラのごとく繰り返し強調される。マイケル・ハート(訳注:創始者)はPDFやHTMLといった洗練されたテキスト表現形式に排他的に依存することに反対していることで知られていた。どの文書もほぼ例外なく、まずは「ただのプレーンなASCII」で提供されることが最低限必要であり、それから他の形式で補完してもよいというのが彼の主張だった。苛立たせられる人もいたが、こう強要することによって、プロジェクトが形式に関する終わりない議論に陥ることを防ぎ、成功を達成することができたのかもしれない。グーテンベルクの参加者の一人の言い方では、
Joseph Reagle (2010), Chapter 2 The Pursuit of the Universal Encyclopedia, CC-NC-SA 3.0プロジェクト・グーテンベルクの心臓部と精神はプレーンテキストファイルにある。このことは長年に渡って軽蔑され、ときには明らさまに攻撃された。醜いと言われたり、ローテクすぎると言われたりした。けれども、数ある電子書籍技術のなかで最終的に生き残り、さらには繁栄さえしたものがこれだったのはなぜだろうか。これまでの過程のなかで私はその粘り強さの価値を理解し、その内なる美の一端を知るようになった。本スレッドは、プレーンテキストに恋した人々のために捧げる。
屈従せしめられた民衆のうめきを、とげのある皮肉にくるんで表白していったイエスのせりふは、いつのまにか高貴な倫理性の象徴にされてしまった。そしてその時に、キリスト教は支配階級のイデオロギーとなった。語られるのは同じ言葉である。しかしその言葉の発せられる位置と方向によって意味は逆になる。
イエスは言った。「権力者どもがやって来て、なぐりやがったら、もう一つのほっぺたも向けてやれ。しょうがねえんだよな。借金とりがやって来て、着ている上着まではぎとりやがったら、ついでに下着までくれてやれ。欲しけりゃ持ってきやがれってんだ」
説教者は言った。「君たち奴隷はですな、人になぐられても、怒らずに、敵をも愛して働かなければいけませんよ。上着を欲しいという人がいれば、下着も分けてあげるようになさい」
p.137、田川建三『イエスという男』(第2版)、2004年悲しいのは、Appleが若い世代に対する悪い見本になってしまっていることだ。 若い世代というのは、Appleみたいに「ユーザーエクスペリエンス」をコントロールしたがってそうな、 TwitterやTumblrといった、比較的小さな会社のことだ。 彼らは、自由市場の不確実さよりも自分たちの品質管理のセンスのほうが優れていると思っている。 だから同じようなコントロールを掛ける。 Twitterでは、Twitterがパートナーとして指定したところのコンテンツしか表示できない。 どうやったらパートナーになれるかは、誰にもわからない。 誰にも見えないようにされている。
Tumblrはあるブラウザアドオンをおすすめしないと言い出した。 これを問題にするのはきっと、それなりの数のユーザーが使いたがったからこそだろう。 この決定は開発者だけじゃなくてユーザーまでも巻き込むことになる。 ユーザーを「教育」しなければならなくなる、というのが問題だと彼らは認めた。 あれ? これって聞き覚えがあるような……… ということで、最後には逆の結果に落ち着くだろう。 そうならなきゃならない
反インターネット